設立挨拶


 「東アジア共同体」という言葉が、いま大きなうねりとなって、静かにしかし着実に広がっている。1952年に「欧州石炭鉄鋼共同体」としてスタートした欧州統合のうねりは、1967年に「欧州共同体」となり、1992年には「欧州連合」となった。この先は「欧州合衆国」だという。そのような欧州とくらべれば、東アジアの地域統合の現状はまことにとるに足らない未発達な段階にあると言える。

 しかし、重要なことは、そのような東アジアにおいても、1980年代の日本、1990年代の中国の経済発展を牽引力として、域内各国間の貿易と投資が累積し、一つの相互依存の経済圏を形成しつつあることと、人の移動の増大や若者の文化の交流の結果として多様な市民レベルの社会的・文化的共生感が育ちつつあることである。加えて、政府間でも、実務レベルから首脳レベルまでの各レベルで、自由貿易や金融協力の分野だけでなく、さらには政治安全保障面までも含めて、着実に協力と統合を進めて行こうとの機運が、急速に台頭してきている。とくに1997年のアジア経済危機以後、このような動きは大きなうねりとなって、地域全体を覆いつつある。あのとき、東アジア地域の諸国は、最後に頼りになるのは、世銀でも、国際通貨基金でも、欧米諸国でもなくて、同じ地域の隣人たちであることを悟ったからである。

 東南アジア諸国連合(ASEAN)と日中韓の首脳たちは、この後定期的に会合するようになったが、かれらの間においてやがて「東アジア共同体」の構想が語られるようになったのは、当然の成行きであった。「ASEANプラス3」首脳会議の提案を受けて、昨年9月北京において「東アジア・シンクタンク・ネットワーク(NEAT)」が設立されたが、NEATは東アジア諸国のシンクタンクの智恵をネットワークでつないで、「東アジア共同体」の夢を現実化するロードマップを描こうとする試みである。NEAT設立会議に出席した日本側関係者は、他地域に負けない地域統合のダイナミズムを東アジアにも創り出さなければならないという、他国出席者たちの共有する強い意気込みを目の前に見て帰国し、日本もうかうかしているわけにはゆかないとの共通認識から、「東アジア共同体評議会」の設立を提唱したのであった。

 「東アジア共同体評議会」は、「東アジア共同体」の推進団体ではない。推進する価値、必要があるのかどうかを含めて、「東アジア共同体」構想それ自体の意味を研究し、日本としてどう対応すべきかをを考えようという試みである。それは政府各省庁、民間各界の関心を有するひとたちを糾合したオール・ジャパンの知的プラットフォームでなければならない。単なる目先のFTA(自由貿易交渉)の研究団体ではない。「東アジア共同体」ということになれば、貿易、投資だけでなく、通貨、金融、さらには政治、安全保障や社会、文化の問題も考えておかなければならない。  30年、40年先を展望する長期的かつ大局的な見識が求められる。いまこの日本にはそのような長期的かつ大局的観点からこの問題を考える「場」はない。貿易、投資等の個別問題については、優れた研究の成果が蓄積されているが、それらは日本人全体の知的資産としては共有されておらず、まして日本の戦略的対応について意見をすり合わせる「場」はない。「東アジア共同体評議会」は、9つの政府関係省庁、11のシンクタンク、13の企業の代表者に加え、40名の学者、ジャーナリスト、政治家などの参加を得て、さる5月18日に船出した。東アジアのなかに広がりつつあるこの大きなうねりに、日本はどう対応してゆくべきなのか。まずは、「東アジア共同体」をめぐる動きの現状をどう評価すべきなのか。東アジアの地理的範囲はどのように考えればよいのか。さらには、日米同盟との両立をどう考えてゆくべきなのか。問題は山積している。「東アジア共同体評議会」はこれらの問題と正面から取り組んでゆくことをお約束したい。


東アジア共同体評議会会長
伊藤 憲一