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2025-08-15 17:11

戦後80年

岡本 裕明 海外事業経営者
 戦後80年という節目もあり、今年は「恒例の行事」も例年以上に盛大、活発に行われているようです。一方で戦争の時代にいつまでも囚われているべきか、という声もちらほら聞こえてきます。戦後70年談話を行った故安倍晋三氏は「安倍晋三回顧録」で「戦後80年のときはやる必要はない」と述べています。その意味とは「あの戦争には何ら関わりのない私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という意見であり、区切りをつけようじゃないか、という考えです。安倍氏は当時揉めていた日韓関係についても未来志向という姿勢を打ち出し、これとほぼ全く同様の、いつまでも謝罪する文化ではなく、ともに築くべきという姿勢を打ち出しています。

 戦後80年もたつと確かにあの戦争を記憶として知っている方は現在90歳近く以上の方になるわけで遠い昔の話になっていくことは確かです。一方、毎年広島や長崎で行われる平和祈念式典や8月15日の全国戦没者追悼式など毎年その記憶があせることなく、世代から世代に話継がれることを通じて我々日本人はそれをしっかりカラダで受け止めている、そう考えています。戦争責任の問題を取り上げる時、昭和天皇が気の毒だ、という考え方があります。私はそうではなくて大日本国憲法がそうさせたのだ、と考えています。ご承知の通り同憲法は「天皇が国の元首として統治権を総攬する立憲君主制を定めている」わけで当時の日本国の憲法上の規定によりそのような体制になった与件があったのです。また、病弱だった大正天皇を別として明治天皇が果たした日本の目覚めの役割は大きかったのです。

 現在、改修工事で休館中ですが、東京 青山の聖徳記念絵画館をご興味ある方は一度ご覧になられたらよいでしょう。そこには明治天皇が勇ましく活躍する数多くの絵画が展示されています。立憲君主制と絶対君主制は相反するものであり、形式上は日本は立憲君主制とされましたが天皇に逆らうことは実質的に不可能であり、明治天皇は特に采配を振るうことに熱心だったのです。もちろん、その背景も考えなくてはいけません。幕府と朝廷という日本の歴史であります。江戸時代が終わり、鎌倉時代から続いた幕府の時代が終焉します。幕末の朝廷はほとんど世間を知らず、長州藩による朝廷への画策など様々な変遷すらありました。尊王攘夷運動においても朝廷が開国への強い抵抗を示したのは情報と知識の欠如による保守的思考に走ったところは大きかったと個人的には思っています。それが明治時代になり、大日本国憲法が生まれたとたん、天皇の位置づけは180度転換するのです。これが日本を狂わせたと私は思っています。司馬遼太郎氏は日露戦争の後、日本はよくわからない時期に入ってしまったと述べ、氏の歴史小説はそれ以降の時代の題材のものを書いていません。違う日本だと考えていたようです。それが「坂の上の雲」に昇った日本であり、僭越ながら私が思う「雲の上」とは地に足がついていないふわふわした状態のなか、時の流れに押されてしまった、というのが感想です。

 ドイツは戦前と戦後では国が変わったとも言われます。ヒトラー時代を敵視、完全否定し、彼らの時代に思想的責任を押し付けます。一方、日本の場合は「菊と刀」が歴史に大きな影響を与えたと考えています。あの著書を批判する意見は多いのですが、それは個別内容のことであり、私が重視するのはあれがアメリカにとって数少ない日本研究の書であった点です。ベネディクト女史が書として発刊したのは1946年ですが、女史は1942年からアメリカ軍戦争情報局の対日戦争研究のチーフだったのです。当然ながら、研究成果は折々報告されていたはずです。そして天皇制が日本にとっていかに重要だったかという判断材料はそこにあったのではないでしょうか?戦争責任について述べようとすると天皇にスポットが当たるので議論展開しにくいと思うのですが、新しい日本国憲法が47年5月3日に施行されたという事実をもって過去と大きな区切りをつけたという見方ができないかと考えています。戦後80年は日本国憲法をベースに日本人に広く受け入れられる根本をつくり、昇華し続けたと考えています。(だからと言って憲法改正をしなくてよいとは言っていません。部分は修正すべきです。)戦後80年談話がそれまでの延長線にあるのなら、もうなくてもよいかもしれません。
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