<あまりに違う東北と東南>
 近ごろ、「東アジア(経済)共同体」なるものを作ろうとする動きがある。

 その内容は東アジアの経済統合のために共同体を実現しようとするものであり、もちろん、政治がその背後にあって推進しようとしている。これは欧州連合(EU)をモデルとするもののようである。

 しかし、私は大きな疑問を抱く。

 その発想が現代の政治・経済の観念、いわば〈近代的〉知識に基づいているからであり、政治・経済を動かす文化、ひいては宗教の観点、いわば〈前近代的〉感覚が欠落しているからである。

 それを「東アジア」ならびに「共同体」の二点に分けて述べたい。

 まず東アジアについてであるが、それは形式的な呼称にすぎず、内容的には、東北アジア(「北東アジア」は外務省の粗訳)と東南アジア(外務省は北東アジアと称しながら、なぜ南東アジアと称さないのか)とであり、両者は、別の文化・宗教地域なのである。

 すなわち、東北アジアは祖先を祭祀(さいし)する地域であり、東南アジアは祖先を祭祀しない地域なのである。

 その結果、東北アジアは時間(歴史)を重んじるが、東南アジアにはそれがない。もし東南アジアにおいて祖先を祭祀する家族があれば、そのルーツはほとんど東北アジア系である。

 このように正反対の性格の両地域が、精神的につながる共同体をどのようにして作りうるのであろうか。ヨーロッパは、解釈の相違こそあれ、少なくともキリスト教によって精神的にはつながっているのである。

<家族のみが共同体の現実>
 次に共同体について。共同体論者の主張を読むかぎり、共同体を数量的・形式的・無機的にとらえ、〈仲良く効率的に協力する組織〉といった程度の、「共同」ということばの表面的語義に基づいて論じている。

 そこには「同」の内実がない。それなら共同体ではなくて、協力体にすぎず、なにもこと新しく共同体と言わずとも現行の諸協力関係ですむ話ではないか。

 共同体とは、核としてまさに〈同〉感覚が存在するものなのである。

 すなわち共同体を支える最大のものは、数量や形式など無機的なものではない。前近代の共同体のメンバーは、無償の愛、信頼、まごころ…といった、いわば熱い心で結ばれていたのである。

 しかし、この前近代の各社会に存在していた共同体を近代は次々と破壊しつくし、熱い心に代って、冷たい法が律する世界に変えていったのである。そして熱い心に代る潤滑油となったものは金銭である。

 辛うじて、熱い心が存在し、今も共同体を構成しているのは家族である。もっとも、家族でさえも今や崩壊への道を歩みはじめているのかもしれないが。

 家族以外の組織において、共同体、共同体とことばを軽やかに費やしたとて、その実感は現代人において失われている。

 自国の人々の間においてもそうなのに、まして他国の人々との間で熱い心で結ばれる共同体を構成することができようか。

<現代人に失われた価値観>
 江戸時代の大儒、新井白石は、自叙伝『折たく柴の記』の冒頭にこう記している。

 合戦で祖父が、「よき首とりて」大将のところに参上したとき、大将はそれを褒め、食事中だった自分の膳(ぜん)を押し出して与えた。

 そのとき、大将が使っていた箸(はし)もともに与えた。それは名誉であったので、祖父はその箸を大切にし、「今も身をはなし給(たま)はぬ也(なり)」と白石に父が語ったと。

 箸とか着ている羽織(はおり)という、上司の身体に近いものを与えられることを名誉と思うのが共同体のメンバーの感情なのである。金銭的価値とまったく異なるこのような価値観を現代人は持っていない。

 すなわち、家族以外の社会において共同体を支える熱い心はもはや消えたのである。

 にもかかわらず、この現代において外国とともに共同体を構想するなど、妄想である。共同体ということばのあやに頼って、なぜそのようなできもしないことを、言いだすのか。

 昨年の七月、本欄で私は中学生や高校生の一カ月合宿を勧めた。それはかつての共同体の疑似訓練でもあった。

 共同体を言うならば、少なくとも、まずそういうところから始めよ。そういう基礎なくして、国家規模の共同体成立など不可能である。

[『産経新聞』2005年1月8日号「正論」欄より転載]